もくじ
はじめまして
ゆいなと申します。
この度は私に興味を持ってくださって
ありがとうございます。
このブログでは
50代でネットビジネスを始めたアラフィフナースの奮闘記をお伝えしたいと思います。
まず自己紹介させて頂きますね。
🌸1968年生まれ
🌸7歳年上の旦那さん
🌸23歳の長女とその子供(いわゆる出戻りってやつです)
🌸20歳の次女
🌸トイプードル
と暮らしています。
私がどういう人間でどのように生きてきたか
今に至るまでをお話ししていきますね。
母との思い出
私はシングルマザーのもとに生まれました。
父親の顔は知りません。
いわゆる未婚の母というやつです。
物心ついた時から、祖母と母の3人暮らし。
でも母は乳がんを患い長く入院生活をしていました。
だから私は母親と一緒に遊んだ記憶がありません。
幼稚園から帰って母親が入院している病院に行くのが日課でした。
抗がん剤を打っていたからなのか、食欲の無い母に代わって病院の夕ご飯を食べて帰っていました。
なんの味もしない病院の卵焼き、具のないお味噌汁、それでも母の側でご飯を食べる時が幸せでした。
「もう遅いからまた明日ね」っと
看護師さんに見送られて帰っていました。

あまり一緒に出掛けた記憶がなくて…。
思い出と言えるものは一度だけ家族で旅行に行った事くらいで。
親戚の叔父さん、叔母さん達も一緒に、場所は忘れましたがどこかの温泉に入って蟹を食べました。
私はたくさんの人達との旅行、母親と一緒の布団で眠れることが嬉しくて。
テンションが上がり過ぎて鼻血を出してしまい、せっかく買ってもらったワンピースを汚してしまったのを覚えています笑。
きっと母と過ごせる最後の時間を病院の先生が作ってくださったのだと思います。
それからまもなくして、私が小学校1年生の時に母は亡くなりました。

看護師の道へ
母が亡くなってからは、祖母が私を育ててくれました。
洋裁の仕事をしていて贅沢はできませんでしたが、高校まで行かせてくれました。
その祖母から、口をすっぱくして言われていた言葉…。
「なんでもいいから資格を取りなさい」
「資格さえあれば食べるのに困ることはないから」
小さい頃からその言葉を聞いていた私は、将来は看護師になると決めていました。
物心ついた時から、家で過ごすより母の入院している病院にいる時間の方が長かった。
鼻にツンとくる消毒液の匂いも嫌いじゃなかったから。
とにかく資格を取らなきゃ!
自立しなくちゃ!
自分で稼がなきゃ!
そんな思いで高校を卒業した後、学生寮のある病院に就職し、看護助手として働きながら専門学校に通いました。
看護学生と言ってもまだ看護師免許はありませんから、看護師さんのような仕事は出来ません。
朝は患者さんの着替えをお手伝いしたり、ベットの周りをお掃除したり。
お茶を配ったり、前日の手術で使った手術着やオイフ(布)を洗濯したり。
そして、昼食を早めに病院で食べて、急いで電車に乗り込み学校へ向かいます。
私の行っていた看護専門学校は13時からの昼間制というもので、16時半まで授業を受けたのち、また病院に戻って21時まで働きました。
私は「勤労学生」と呼ばれていました。
働きながら勉強するのは大変でしたけど、若かったんですね。
あまり苦労した覚えもなく
(昔すぎて忘れてる?笑)
2年で無事卒業し、私は准看護師になりました。

おかげさまで祖母が長生きをしてくれ、
看護師になった私の姿を見せる事ができ、
91歳で他界しました。
看護師は天職だと思ってた
私は学生寮に居た為、先輩や同僚も多く困った時は助けてくれていたので、あまり人間関係で悩むことはありませんでした。
夜勤も月に7〜8回ありましたがなんとかこなせていました。

私が30代になった時に、准看護師が正看護師になるための移行教育というのが始まり、私も38歳で通信制の看護短大に入学しました。
ちょうど下の娘が小学校に上がった年だったと思います。
准看護師として病院に勤務しながら、学校の登校日に合わせて休みを取り、電車で片道1時間半の短大に週2回の通学・・・。
病院が休みの時は学校に行っていたので丸2年間全く休みなしでした。
職場や家族の協力もあり、無事に国家試験に合格。
40歳で正看護師になり、病棟主任になった私はもうそこから仕事が楽しくて仕方ありませんでした。

夜勤や早出、遅出といった変則勤務、加えて手術室。
子供も中学生になり少し手が離れていたので、保育園にお迎えにいかなければいけないママさんナース達が出来ない業務は全部やっていました。
主任として、夜勤で若いナースと一緒になれば
「師長さんにこう言われたんですけど、納得いかなくて」
「患者さんの家族からクレームが来たんですけど
どうしたら・・・」
などなどお悩み相談会開催で(笑)
自分の仮眠の時間削って後輩の相談に乗っていました。
病棟主任って後輩の愚痴を聞き、師長に物申すと「病院の方針だから」と却下される中途半端な役職。
やたら勉強会の資料を作らされたり、委員会のまとめ役やらされたりの何でも屋。
それでも看護師は天職だと思っていたし、やりがいを感じていました。
どんなに忙しくても看護師を辞めたいと思ったことはなかったんです。

ここまでお読みくださってありがとうございました。
続きは 【 救急病院辞めました 】をご覧くださいね。
私は50代以降の方に向けて【自分らしいセカンドステージの始め方】
というメールマガジンをお届けしています。
よろしければご登録ください。
